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2005.03.31

西武鉄道株による損害はいくら?

 厚年基金連合会が上場廃止で損失を蒙ったとして、西武鉄道に損賠賠償を求める訴訟を起こしました。以前にも西武鉄道の個人株主が同様に上場廃止で損害を受けたとして訴訟を起こしたという報道があり、こちらは今係争中だと思います。

 個人株主の訴訟のときは、求める賠償は虚偽記載公表直前の株価と上場廃止を決めた時点の株価の差額を損害としていました。1000円を超えていた株価が268円に下落しましたから、1株あたり700円超の損害という計算です。

 私は、この計算には疑問を持っていました。株主の損害というのは、購入した株価を基準にしてそれよりも下回って売却した金額が損害だろうと考えたからです。西武鉄道が有価証券報告書に虚偽記載をしていたのは、40年以上にも及ぶということです。そうすると、ほとんどの株主は虚偽記載が為されている間に購入していると考えられます。虚偽記載をしなかったなら、西武鉄道株は上場基準を満たしておらず上場されることはなく購入できなかったはずです。本来購入していなかったものを西武鉄道の虚偽記載によって購入してしまったことが損害といえると思うのです。買った価格に法定利息をつけた金額と売却した金額の差額が損害だろうと考えたのです。

 今回、厚年基金の記事を読んでみますと損害としている金額は、個人株主同様に虚偽記載公表時を基準にして、上場廃止の報道を受けて売却した金額との差額を損害としています。厚年基金も公表時の株価を基準にしていますので、「厚年基金も無謀なことを」と思ったのですが、どうもこちらは事情が違いそうです。

 新聞記事をさらに読んでみますと、日経ネットの記事には出ていませんが、厚年基金が西武鉄道株を購入したのはインデックス運用のために購入したとあります。TOPIXか日経平均か何のインデックスかは書いてありませんでしたが、そのために購入していて上場廃止になることから売却したところ損害が出た、ということのようです。こうなると、先の個人株主とは同様には考えられません。

 インデックス運用をしてベンチマークにより近い運用実績を実現するために組み入れる銘柄を決めているわけですから、西武鉄道株がベンチマークを構成する銘柄であった以上購入するのは当然です。本来、西武鉄道は上場できず、ベンチマークを構成する銘柄ではなかったとはいえ、今までインデックスは西武鉄道の株価を織り込んで動いていた事実は消すことはできません。まさか西武鉄道株を除いたインデックスを計算しなおして、それを基に損害額を算定することはできません。こちらのほうはまさに西武鉄道の虚偽表示を発端として、売却によって生じたファンドの損害額を求めることが正しいように思えます。

 そう考えると、先の個人株主の言い分も聞いてあげたくなります。厚年基金は大きな資金量をもっていますから、インデックス運用のように多くの銘柄に分散投資できます。個人ではそこまでは無理です。資金量の多い投資家の損害賠償と、資金量の小さい投資家の損害賠償に差が出るのは不公平です。

 いずれにしても、損害賠償は認められると思いますが、個人株主も厚年基金も不公平のないような賠償になって欲しいものだと思います。

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2005.03.30

BSE検査見直しに思う

 BSEの全頭検査の見直しが決まりました。全頭検査は科学的に必要ないという食品安全委員会の結論です。この結論がでている一方で、厚労省が全頭検査に補助金を出すということは、厚労省は食品安全委員会の結論を信頼していないということに等しいといえます。もし食品安全委員会の結論が信頼するに足るものであって、それでも消費者が全頭検査を求めるのならば検査費用は消費者が負担してしかるべきです。全消費者が全頭検査を望むのなら検査費用を税金から出すこともいいでしょうが、全消費者の意見の一致などありえません。科学的に全頭検査を緩和しても心配ないのであれば、検査を緩和した値段の安い牛肉と安全を重視した高い牛肉の二種類が売られるようにならなければおかしいはずです。

 厚労省が全頭検査に補助金を出し続けていると、食品安全委員会の結論は信じられないものなのかという疑問が芽生えてきます。私をはじめ、多くの消費者は専門的なことはよくわかりませんから、税金によって専門家に検討してもらっているわけですが、その結論が出ても信頼しきれないのであれば何のために検討したのかわかりません。

 このような矛盾した態度が、アメリカによる牛肉輸入再開への圧力となっているといえるように思います。アメリカによる圧力によって輸入を再開するわけには行きませんが、身内である食品安全委員会を信頼できないのにどうして米国政府や米国畜産業者を信頼できるのでしょうか。食品安全委員会を信用していない以上、米国産牛肉の輸入再開はきっぱり断るのが筋というものです。ただし、日本は非科学的な国といわれることを甘んじて受けなくてはいけませんが。

 科学的に不明確な点が多いというなら安全であるという結論は出せないはずです。他国がどうであれ、科学的にどうなのかという視点で結論を出して全頭検査は必要ないならその結論は尊重されるべきです。何年か何十年か経って、現時点の科学力では解明しえない原因で人体に被害が出ても、食品安全委員会に非がないといっていいはずです。それでも被害者が出たら、誰も防ぎ得ない原因による被害として国民全員の税金から損害を賠償してあげるよりしかたがない。これはHIVのケースとは違い、公務員や国から委託された学者の不法行為に基づく賠償ではなく、誰にも責任を問えないからみんなで損害を補填するものです。

 捕鯨は科学的に問題ないことを国として主張するのであれば、ここも科学で判断することが必要です。人の健康に関することとはいえ、国民の負託を受けた食品安全委員会を信用できないのならば、科学自体を否定することです。もちろん無理やり牛肉を食べることは強制できません。科学を信用しない人は食べなくてもいいわけですし、全頭検査をして欲しければ自ら費用を負担してそれを食べればいい。むしろ米国の牛の月齢をどうやって20ヶ月未満かどうかを見分けるのか、科学的にしっかりと検討して欲しいと思います。

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2005.03.29

対中武器輸出

 シラク仏大統領の来日に際して、小泉首相が会談してEUによる対中武器禁輸解除に反対の立場を表明したと報道されています。基本的に武器輸出はいいことではありませんし、日本、韓国、台湾など東アジアの自由主義諸国への軍事的脅威である中国へ武器を輸出するなど反対して当然といえます。しかし、よく考えてみるとどうなのかなと思うこともあります。

 EUが武器を輸出したいといっても、これは日・韓・台への圧力を目的としたものではないことは自明です。リップサービスかもしれませんが、シラク大統領は日本の拒否権付での常任理事国入り支持を表明しています。EUの目的は単なる経済的利益であろうと推測されます。EUと中国を比べたとき、どちらが我々自由主義諸国陣営に近いかはいうまでもありません。

 一方で、もし中国がEUから武器を輸入するとして、自国の軍事力を同盟国ではない他国に依存するということをどのように考えるのだろうか、という疑問が湧きあがります。ありえないことは承知していますが、例えば中国はアメリカから武器を輸入するでしょうか。アメリカが中国に話を持って行っても、中国のほうで警戒するのではないでしょうか。なぜなら、自国の軍備がアメリカからの輸入に頼るようではいざというときに行動に制約が生じます。

 EUはアメリカとは対立することはあっても、基本的にはNATOの同盟国です。アメリカの同盟国が中国の軍備の一部を握るのであれば、それはそれで台湾海峡などでの緊張が高まった際に我々自由主義諸国側の切り札として使える可能性があるように思います。武器輸出といっても、無制限に行われるわけではないはずです。EUにしても、武器輸出によって武器の製造技術が中国に渡ってしまい、中国が自国で製造をするようになっては輸出できなくなります。どのような武器のどのような技術が提供されるのか、アメリカも含めて事前に確認しておくことは可能ではないでしょうか。さらに、東アジアで緊張が高まったときには、中国への武器輸出を止めることによって、自由主義国の脅威を取り除くことなどを決めておけば、EUを通して対中国への対抗手段の一つとなりうるのではないでしょうか。

 このように考えると、対中武器輸出は反対の立場であっても、止められないのであれば発想を切り替えてどのような武器を輸出するかを把握できるように働きかけたほうが得策だと思います。

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2005.03.27

原油高騰から推測

 原油の高騰はどのくらいなのか調べてみました。とりあえず、年初と直近を比べてみます。東京のドバイ原油は年初34.25ドルでスタートして3/25に47ドルと12.75ドルの上昇。年初から37%あまりの上昇です。NYのWTIは、年初42.12ドルから3/24には54.84ドルで、12.72ドルの上昇。率にして、30%強といったところです。

 上昇率で見ますと意外にも、NYよりも東京のほうが上がっています。日本は原油のほぼ100%を輸入に頼っていて、3割程度自給しているアメリカと違うのかもしれませんが、原油の輸入量を見ると、アメリカは約5億トン、日本は約2億トン強とアメリカは日本の2倍以上の量を輸入しています。また漠然とした感覚ですが、省エネ技術もアメリカよりは日本のほうが進んでいるのだろうと思います。世界的な原油高騰は、日本においてよりもアメリカのほうが影響を受けてしかるべきと思うのです。

 恐らく、昨年の後半の原油高騰時はWTIのみでドバイ原油は上がらなかったために、今回はドバイ原油も上昇余地があると見られているようです。原油高騰の原因は、中国などの新興工業国の需要増加による需給の逼迫に投機資金が便乗して上がっていると見られています。実需の部分は原油の増産など供給を増やすか需要が減らない限り価格は下がらないでしょうが、投機の部分は投機筋が利益を上げるか他にもっと利益の上がる投資対象が出てくれば下がります。

 OPECが増産を決めても下がらなかったところから、現在の価格は実需ではないと推測していましたが、3月26日の日経の記事にもありますが、米石油メジャーは増産に慎重ということです。これは中国等の需要が増えてきても、いずれ投機資金がなくなれば現在の価格を維持できないと見ているということです。つまり、現在の価格はかなり投機資金によって吊り上げられている、いわばバブルといえそうです。

 バブルによる価格でも、バブルがはじける前なら儲けられる可能性はあります。問題はいつバブルがはじけるかということですが、それは誰にもわかりません。それよりも、このところの米株式市場の下落が、金利上昇の要因以上に下げているとすれば、原油高による要素もありそうです。原油高による下げがあれば、長期的にはアメリカ株(あるいは米国株に投資している投信)を買うタイミングを探ってみてもいいのかもしれません。
 

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2005.03.26

栃東YATTA!!

 大相撲大阪場所の13日目を生で見ていた人は羨ましいですね。優勝がかかった横綱と大関の取り組みを2回も見られて、しかも憎たらしいほど強い横綱に今年初めて土がついた瞬間を見ていたわけですから。

 取り直し前の一番は、物言いがつかなければ行司の通り朝青龍の勝ちかと思いましたが、ビデオを見ると確かに微妙ですね。目の前で見ているとはいえ、審判席で見ている親方たちはよく見ています。取り直しも見ごたえがあってよかった。大関が横綱を破って座布団が飛ぶのは、栃東に失礼かとも思いますが、投げたくなる気持ちもわかります。私が升席にいたらたぶん隣の座布団も投げていたかもしれません。

 今日は魁皇にも頑張って欲しいですね。平幕には負けても横綱には負けない大関が三人いたら、それだけで盛り上がるんですけど。今場所は期待の白鵬、琴欧州の調子がよくなかったので、最後に大関に頑張って欲しい。夏場所にはまた両国に見に行きたいと思っています。

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2005.03.24

残念!!

 ニッポン放送の新株予約権発行は、ある程度予想はしていたものの、高裁の判断は残念なものでした。何が残念かといって、時間外取引をあっさりと証取法違反ではないと片付けられたことです。確かに証取法は市場外取引を禁じているのであって、東証が認めたTOSTNet取引は東証内の取引です。でも、証取法が禁じているのは、大量の株式を売買する際に、特定の相手だけを優遇しないようにという主旨のはずです。時間外でニッポン放送株を売却したサウスイースタンと購入したライブドアは、明らかに事前に相対で合意があったはずです。しかも、2月8日以前の市場の株価よりも高い値段です。高裁はこの点を認めていながら、「相当性を欠くと見る余地があるとの一事をもって、主要な目的が経営支配権確保にある本件新株予約権の発行を正当化する特段の事情があるということはできない。」といいますが、市場取引の「相当性を欠く」行為で経営権を奪い獲ることは許されても、守ることは許されないというのは納得できません。

 高裁の決定の中でもう一つ気になったのは、フジサンケイグループ各社が「容易に新たな取引先を見出せないような事情にあることを認識しつつ、取引の相手方の事業活動を困難に陥らせること以外の格別の理由もないのに、」取引を打ち切ることは独禁法違反の疑いもあるとしています。一方で、「フジサンケイグループ各社との取引中止が(ニッポン放送の)単体の業績に及ぼす影響は必ずしも甚大ということはできない。」ともいっています。取引中止の影響は大きくないにもかかわらず、グループを離脱した会社との取引を止めると独禁法違反にしてやるぞといっているようで、こんな判断はどうかなと思います。それに独禁法違反の件は国会でも取り上げられて、公取委員長が否定していたはずです。

 今後どのような展開になるのかはわかりませんが、市場の公正さを守るためには、時間外取引の実態を明らかにすべくさらに争うという選択もありえます。ニッポン放送とフジテレビの経営陣は異常な親子関係を放置してきたという弱みはありますが、自己保身ではなく市場の公正さのために戦って欲しいと思います。

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2005.03.23

それでもやっぱりライブドアには納得できません

 ニッポン放送の増資差止め仮処分の高裁判断が今日にも出るようです。地裁でライブドアが全面勝訴したせいか、マスコミではライブドア優勢の論調が多いのですが私はどうしても「これでいいのか」という思いが湧き上がります。企業買収することはいいのです。ただ、あのやり方は違法といわなくてはならないように思えてしようがありません。時間外取引は認められた市場内取引だからTOBをしなくてよいけれど、今後はこれを改めてTOBを義務付けようとしています。適法ならば法律を改正する必要はないはずで、改正の必要があるのなら法律に不備はあったにせよ、あの時間外取引というのは脱法行為であったことは確かのだと考えられます。グレーだけれど法律違反ではない、といわれますが、グレーであるなら本当に違反ではないといっていいのかどうかもっと検証されてしかるべきです。

 「自由主義経済の中の象徴的存在である株式市場は、あくまで自由でなければならない。法律に違反していなければ何をしてもよく、それで都合が悪ければ速やかに改めて同じ過ちを繰り返さなければよい。」一見正論ですが、私には正論には聞こえません。私に言わせれば、「自由主義経済の中の象徴的存在である株式市場は、あくまで自由かつ公正でなければならない。法律に違反していなければ何をしてもよいということではなく、公正さを保つことが自由を守ることであることを、市場参加者は理解し実践しなければならない。」となります。ライブドアのグレーだけれど法律違反ではないというのは、公正さに欠けるのではないでしょうか。大量に株式を取得するときには、特定の相手に偏らず公開買付(TOB)をしなければならない、という証取法の規定に反していてアンフェアではないのでしょうか。条文の字面を追えば、市場外取引を禁じていて市場内取引である時間外取引は禁じられていないという見解もありますが、証取法が市場外取引を禁じたときには時間外取引などなく、証取法は時間外取引を許しているわけではありません。公正さ、フェアネスというフィルターを通してみると、はなはだ疑問を感じざるをえません。

 法律で禁じられていなければ何をしてもよいというのは、人権にかかわるような国家対個人といった対立構図のときの考え方であって、私人間の争いには法律の根底に流れる公正さを考慮すべきではないのでしょうか。株式市場はすさまじい情報戦が毎日繰りひろげられているのでしょうが、法律に不備があったとはいえアンフェアを許すことは、長期的に株式市場の信頼を失わせることになります。経済は日々動いて金融市場の投資手段は絶えず新しくかつ複雑になっていきます。法律が実態に遅れてしまうことは今回に限らず将来もありえることです。そのたびに最初の1回目の脱法行為は許してしまっていて、果たしてそれで公正な市場といえるのでしょうか。株式市場だからこそ、市場参加者は自由を守るために公正さを重じることが必要なのではないでしょうか。

 公正さということで見れば、フジテレビへの新株予約権もフェアとはいい難いのですが、同様にライブドアが時間外で取得した売買も違法性を認定しなければ片手落ちだと思います。高裁の判断はどうなるか注目ですが、仮に審議時間の短い今回の決定で認められなくても、本訴に入れば必ずや認められると信じたいと思います。

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2005.03.22

年金制度改革を望みます

 ショックな記事がありました。私も含む国民年金加入者の保険料は、基礎年金さえも賄っていないとは。(日本経済新聞記事参照)基礎年金の一人当たりの負担額は月額15,000円になるそうですが、国民年金の保険料は月額13,300円です。これから毎年保険料は上がるとはいえ、一人当たりの負担額も上がりこそすれ下がりはしないでしょうから当分は基礎年金を賄えない状態が続きそうです。

 記事には未納者が増えたためとあります。確かに今のままで将来年金がもらえるかどうかはとても疑わしいと思います。払わない人の気持ちもわからないでもないのですが、私はなぜ払っているかというと、「自分の親が年金を受け取っているから」ということでしょうか。自分の親が年金をもらっているのに、その財源となる保険料を払わないというのは申し訳ないという気持ちになります。親がもらっている年金の金額は知りませんが、少なくとも月額13,300円よりは多いだろうと思います。トータルで考えれば払ってもまだ得だと思っているから払っているのです。

 ただ、親はいつまでも生きているわけではありません。いずれ死ということで、年金がもらえなくなるときがきます。そうなったときに私は国民年金の保険料を支払い続けているかどうか。私の親はまだまだ年金をもらい続けられそうなのですが、親が生きているうちに年金改革を実行して親が年金を受け取らなくなっても払いたいと思う制度にして欲しいと、切に願っております。

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2005.03.18

会社を「所有」するということは。

 株式会社は誰のものなのか。最近よく聞くようになったフレーズです。なんとなく考えてみました。株式会社は誰のものなのでしょうか。

 会社は株主のものだと言われるようになりました。商法的には昔からそうなのですが、率直には納得できません。例えば、今問題のコクドという会社は、株主の約半分が誰だかわからなくなっても、銀行主導の経営改革委員会がイニシアティブをとって改革を進めています。株主が堤家の誰かなのか、株主名簿の名前は実在するのかなど、会社が株主のものだと言う人はこの現象をどう説明するのでしょうか。
 私が思うには、会社の所有者というべき人を探すには、まずはバランスシート(貸借対照表)を見ることかなと思います。左側の借方には資産が出ています。会社はこの資産を使って活動をして利益を生み出しています。そしてこれを支えているのが、貸方の負債と資本です。帳簿上は負債があっても実質上無借金会社なら、つまりは負債がゼロならその会社は株主のものと言えないこともないのかなと考えます。コクドは、銀行借り入れで不動産を買っています。資産に不動産が計上されて、負債に借り入れが計上されます。バブル崩壊後不動産価格が下がって資産は実質上小さくなっても、他に西武鉄道株がそれを補って余りあったから債務超過にならず健全な経営を保ってきたのでしょう。ところが、西武鉄道株が上場廃止となって価値が大幅に下がってしまいます。そうすると、不動産も含み損を抱えていますから、資産は大きく縮小して実質債務超過、つまり資本がマイナスとなったようです。資本がマイナスの企業が株主のものだとは言えません。負債に計上されている借入金の出所である銀行がイニシアティブを取るのは当然です。

 債務超過でない健全な企業であっても、会社は株主のもの、あるいは株主だけのもののように言われると違和感を覚えます。というのは、バランスシートに計上される資産が会社の全部を表している訳ではないからです。通常、M&Aが行われるときに買収される企業の価値の査定に帳簿に出てこない営業権、いわゆるのれん代が加味されます。営業権などはバランスシートに計上されていなくても株価に反映されているのかもしれませんが、会社の重要な資産で計上されていないものがまだあります。それは「ヒト」、人財とでもいうのでしょうか。経営者や従業員です。もし、人間が必要ない機械だけで生産と販売をして利益を上げる会社があれば、ヒトという資産を考慮する必要はないのでしょうが、そうでなければ、ほとんどの会社はそうだと思いますが、ヒトを無視して株主だけのために経営はできないでしょう。

 優れた経営者や優れた人材のいる会社の株価は、そうでない会社の株価より高くなっていて折込済みではないかと思われる方もいるかもしれません。でもそれはヒトの能力を市場が評価して株価に織り込んだだけで、ヒトそのものを株価に織り込んではいませんしできません。会社は株主のものと言っても、会社の全てが株主のためにあるとは限りません。

 これは、会社は誰のものかということではなく、株主のものとはいっても会社の所有は「パソコンを所有する」などというときの所有とは意味合いが異なるということです。所有権は絶対な権利だと思ってしまうと、これは間違いになります。昔の封建領主は今日的な意味で領地を所有はしていません。世俗的な権限は領主にあっても、それが全てではなく、宗教的には教会が権限を持つこともありました。日本でも戦国時代には、領主の権限と寺社の権限、足利将軍の権威や天皇の権威などが錯綜していて、今日的な所有権で全てを説明することは不可能です。

 現代は封建時代とは違ってはいますが、近代的所有権の概念が当てはまらないことがあります。昨年末に業法が改正されて今後その使い道の拡大が期待される信託は、近代的な所有権概念とは相容れない面が多分にあります。所有権は受託者が持っていても、それは受益者のために行使しなければならず、このとき信託財産は受託者のものとはとても言うことはできません。

 こうして見ると、会社は誰のものかと聞かれても簡単には答えられません。債権者や株主、役員や従業員、取引先や世間一般がそれぞれの立場で自らの利益を追求しながら主張しあう中から、それぞれの会社ごとに影響力の大きさが決まってくるようです。もちろん、その影響力も時間とともに変化もするでしょう。そして、影響力の大きさ比べにおいて何よりも必要なのは、「公正さ」と「平等」のルールと自制心です。この両者に疑いのある行為は、市場から排除して、さらに違反が明らかになれば行為者自身を排除する必要があります。それぞれの立場で公正な主張をする行為者が、会社を持つにふさわしい人なのだろうと思います。

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2005.03.15

リベラリズムと自由主義

 リベラリズムというのは、自由主義のことです。自由であることを重んじて進歩的で平和主義的で、保守派と対極的なところに位置するような感じがあります。でも矛盾するようですが、アメリカの大統領の中ではレーガン元大統領は紛れもなく自由主義者であって、彼ほど規制をなくして自由化を推し進めた大統領はいないのではないかと思えます。同じ頃に、イギリスにはサッチャー首相、日本には中曽根さんが規制緩和を進めました。一方、従来のリベラル派はどうでしょうか。弱者の保護を訴え、ケインズの計画経済を後生大事に守り続けて政府の支出を増やした元凶であったのではないでしょうか。

 その反省から新古典派と言われる人たちが、小さな政府を標榜して政府の関与を少なくして規制緩和による自由化を進めてきました。今もアメリカではブッシュ大統領が、日本では小泉首相が自由化を推し進めています。かつてのリベラル派の人たちも今の自由化政策には大筋で反対はしていないでしょう。郵政民営化に反対を唱える人も、何が何でも反対という人は少数で、多くは民営化の方法論や民営化する時期の問題で反対しているのであって、大きな方向では官から民へという方向に異論はないはずです。

 いわゆるリベラル派が正しいと思えたのは、自由主義が行き過ぎて自由放任へと落ち込んだ時にその間違いを指摘したからです。ケインズの言う修正資本主義は、自由放任を自由主義に戻すために必要だったのであり、それを支持した人たちがリベラリスト、本来の自由主義者だったのではないでしょうか。

 現在は自由放任なのでしょうか。自由主義は常に放任状態になりやすいことは、ケインズ以前の歴史が教えてくれています。ですから、本来の自由主義に修正することを求めるリベラル派は常に必要です。福祉が足りなければ真の自由は実現しないというのであれば、福祉を強化すべきと主張することは必要です。しかし、今は国の財政が破綻しかけるほどあらゆることに国が関与するようになって、決して放任と呼べる状態ではありません。このような状況においてリベラリストが主張すべきは、文字通りの「自由化」のはずです。

 自由には責任が伴います。国の関与から自由になるのであれば、自立した個人として責任ある行動が必要です。個人の自立については国に頼らず、一方で自由は常に放任に陥りやすいという歴史的教訓を忘れないことも必要です。法に触れなければなんでもありなどという姿勢は、世の中から反発を受けるだけではなく、自立した個人の否定につながりひいては自由を狭めるものという自覚が必要です。

 今は、時代認識として、自由放任に陥っているのかそれとも政府の関与が過大なのか。リベラル派はその認識によって立ち位置が変わってきます。立ち位置を間違えると、リベラルではなく、左翼になったり反動勢力になったりします。私の目には、いわゆる従来のリベラルといわれる人々は、立ち位置を間違えて左翼になっているように見えます。あるいは左翼がリベラルを気取っていただけなのかもしれません。

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2005.03.12

金融商品の販売について(後)

 金融商品の販売について、「販売代理」から「購買代理」への変化は顧客ニーズを考えますと当然の変化ではありますが、販売の現場では結構難しいことです。というのは、今まで販売手数料目当てに売りまくっていた人間が顧客ニーズを踏まえて商品の組み合わせをコーディネイトしようとしてもなかなかうまくはいきません。デパートには化粧品、シャツ、ジャケット、スカートやズボン、靴と自分に合った身だしなみを整えようとすればほぼ全てといっていいほどのアイテムはそろっています。しかし、一人ひとりの顧客のニーズのためにトータルにコーディネイトしてくれるデパートの販売員はどれだけいるでしょうか。

 銀行においても同様で、ワンストップショップ化が進んで仮にあらゆる金融商品が銀行で購入できるようになったとしても、トータルにコーディネイトしてくれる銀行員は極めて少数なはずです。多くの銀行員がコーディネイターとして活躍できるほどの能力を持っていたなら、不良債権問題にしてももっと早くに解決していたはずです。そして、少数のコーディネイターは一般の顧客の前に出てくることはまずないはずです。100万円をコーディネイトするのも、1億円をコーディネイトするのも、その内容は違っていてもかける労力はほぼ同じです。顧客の属性を理解してそのニーズを把握して、その顧客にあった金融商品をチョイスする作業は、金額の大小にかかわらず同じ工程です。そうすると、当然に同じ手間なら報酬の高いほうを優先します。100万円から受け取る手数料よりも1億円から受け取る手数料のほうが高いので、そちらに少数のコーディネイターは注力することになります。

 これは当然のことで、金持ち優遇とかそういうことではなく、一般的な経済活動です。いいも悪いもありません。問題は、少数のコーディネイターになれないその他大勢の販売員たちです。今まで「販売代理」として金融商品を売りまくった人たちは、それはそれで銀行の収益増強に貢献してきたわけですから、銀行内でそう邪険にもできません。こういう人たちは、バブルの頃には貸すことが第一だと言われればとにかく貸しまくって、不良債権ができてBIS規制をクリアするためには貸し渋りだとなれば貸し渋りどころか貸し剥がしまでやってきた人たちです。銀行での取扱商品が増えるごとにその商品の増強運動キャンペーンなどがあると、「購買代理」などは無視して突っ走ります。今の銀行の責任ある地位にいる人の多くはこの類の人のはずです。

 大手銀行ほど、あるいは金融コングロマリットに近づけば近づくほど、金融商品の製造と販売が近づきます。グループ内に投信会社や生保を取り込めば、自分たちのグループ内で金融商品を作って売ることができます。顧客ニーズを踏まえて製造すればいいのですが、すべての人の全ての病気に効く薬がありえないように、どんなに優れた金融商品でも処方箋がなければその真の実力は発揮できません。一般論で考えて、自社グループ内で製造した製品と他社製品があった場合、どちらを優先して販売しようというインセンティブが起こるでしょうか。多分、自社に近い製品から売りたくなるでしょうし、優先的に売るよう支持されるでしょう。そして、販売員は「売って収益を上げよ」といわれれば喜んで売りまくる人たちです。さて、どのような事態が予想されるでしょうか。

 このような状況では「購買代理」を実行することは難しく、相変わらず「販売代理」の理論がまかり通るのではないでしょうか。「購買代理」が行われるには、販売員の能力向上が必要なのは当然ですが、大手の金融機関よりも地域に根ざした規模の小さい金融機関のほうが有利となる可能性があります。規模が小さいがゆえに金融コングロマリット化できず、当然ながら金融商品の製造過程に参入することはできません。売る製品が全て他社製品であれば、どの製品を優先するかは顧客ニーズに基づいた選択が可能となる余地が、大手金融機関よりも大きくなります。「販売代理」から「購買代理」への移行は、地方からもたらされる可能性があります。

 このような現状から、「購買代理」の実現はそう容易ではありません。でも、小さなところからでも、わずかな風穴を開けることが将来の大きな流れの元になります。顧客ニーズを的確に捉えそのニーズに応えるという、当たり前ながらも地道な活動の積み重ねが、いつしか大きな流れへとつながっていくはず、そう信じていたいと思っています。

 

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2005.03.11

金融商品の販売について(前)

 先日、社労士生保マンInakkyさんから一月ほど前の私の記事について興味をもたれたとおっしゃっていただいたので、私自身の考えの整理を含めて取り上げてみたいと思います。

 先月、あるFP(ファイナンシャルプランナー)認定団体主催のシンポジウムでの講演で、金融商品の販売姿勢について非常に感銘を受けました。今、時代の趨勢として金融機関、特に銀行においてあらゆる金融商品を一ヶ所で購入できるようになるようになって来ています。いわゆるワンストップショップ化です。一般に私たちは、金融商品に対していろいろなニーズをもっているものです。典型的な例を考えてみますと、給料を受け取るための普通預金口座が必要ですし、そこから光熱費などの公共料金や買い物をしたクレジットカードの決済が行われます。当面必要ではない資金なら定期預金にすることもあります。家を購入すれば、銀行で住宅ローンを組みますし、火災保険や地震保険にも加入します。以前は、住宅ローンは銀行の窓口で手続きをする一方で火災保険は損害保険会社かその代理店での手続きでした。今は両方とも銀行の窓口でできます。銀行が損害保険会社の商品を販売できるようになったからです。

 住宅ローンは20年から30年におよぶ長い期間の借金です。住宅ローンを組むに当っては、人生の将来設計をもう一度考えるはずです。そのときに住宅と並ぶ大きな買い物といわれる生命保険も見直すいい機会でもあります。今はまだ一般の生命保険は銀行の窓口では扱っていませんが、ライフプランをたてるにあたっては住宅ローンと生命保険を別々に考えるよりは一緒に相談できれば便利です。

 ライフプランを考えると、これから20年から30年の住宅ローンがあるとはいっても、公的年金が当てにできない現状では老後資金のことも少しは気になります。預金金利は史上最低といわれてもう10年以上経ちますが、いまだに最低のままでいつ上がるかさえ見えてきません。月々のわずかな貯蓄を効率よく老後資金に当てられるだけの金額に増やそうと思えば、株や債券なども検討する必要がありそうです。証券会社は敷居が高くても、いつも使っている銀行で株や債券が購入できればいろいろ話しも聞き易いし、いいかもしれない。

 現実に、銀行では従来損害保険や生命保険、証券会社で扱っていた商品を既に販売しています。証券会社のみで扱っていた頃よりも、投資信託は大きく残高が増えています。そして投資信託の約半分は銀行で販売されています。生保の変額年金保険も同様です。

 とはいっても、銀行は自分でこういった金融商品をつくっているわけではありません。投資信託であれば投信会社が、変額保険であれば生保が作った商品を販売して販売手数料をもらっています。バブル後の落ち込んだ収益を立て直すには、他社が作った商品を販売して儲けることは効率のいい儲け方でした。作るコストがかからないだけに売れば売るだけ儲かる仕組みは、不良債権処理に追われた銀行には絶好の儲けるチャンスでした。儲けるために売りまくったわけです。投信会社や生保の代わりに金融商品を販売するいわゆる「販売代理」というビジネスモデルです。

 しかし、ここで状況は少し変わってきました。やみくもに「販売」だけすることには限界があるのです。お客様である銀行利用者は、働いて老後資金を作ることは難しく、お金を働かせなければ老後資金は作れない時代になったことを多くの人が自覚するようになりました。利用者のニーズは、金融商品を総合的に組み合わせて、資産を守り、殖やし、残すといったことを強く求めるようになったのです。このニーズを満たすためには、売り手側の「販売代理」では無理です。利用者の対面に位置する「販売代理」ではニーズを充足できません。利用者の横に来て、利用者にとって何が必要なのかを一緒に考えて、商品のチョイスを手伝う「購買代理」が求められるようになったわけです。

 大手銀行は、不良債権処理に目途をつけて金融商品のワンストップショップ化に加えて、金融商品の製造にも乗り出すところも出てきそうな気配もあります。信託はすでにほぼグループ分けがなされています。あとは生保、損保、証券会社を金融グループに取り込んであらゆる金融商品を取り扱う「金融コングロマリット」を形成しようという意図が見えてきています。アメリカのシティグループなどのような大規模な金融機関のイメージです。

 さて、金融コングロマリットは置いておいて、銀行における「販売代理」から「購買代理」という流れは間違いないものだと思いますが、果たしてその流れはスムースなのかどうか。本題はその点なのでしょうが、ちょっと長くなりそうなので、記事を改めたいと思います。後編に続くということで、今日はここまでにさせていただきます。

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2005.03.09

公的信用保証の担い手拡大

 公的信用保証が、ノンバンクの融資にも適用できるよう信用保証の対象を拡大するようです。中小企業の融資の円滑化を目的とする信用保証協会の主旨から言えば、資金調達先の拡大は望ましいのでしょうが、どこまで利用されるかは見ものだなと思っています。

 恐らくは、中小企業融資においては銀行も信用保証協会付融資から組み込んでいるはずです。BIS規制からプロパー融資は相当に絞り込んだはずですから、中小企業の信用保証枠はあまり空いていないだろうと推測します。ここ1~2年はメガバンクを中心に、銀行も再び量を重視してきて無担保のビジネスローンなどでノンバンクのような融資をしてきましたから、ノンバンクにも信用保証協会を開放しようという発想かもしれません。悪いことではありませんが、今までのノンバンクの顧客は保証枠が一杯でしょうし、銀行の顧客を獲りにいっても、銀行との取引のみでノンバンクとの付き合いのない中小企業がノンバンクとの取引を始めることは、よほどのことがないと普通はやらないと思います。

 返済が進んで、信用保証協会枠が空いたところへノンバンクがタイミングよく飛び込んでみても、取引金融機関にノンバンクを加えるとは考えにくいのではないでしょうか。ノンバンクから融資を受ければ、いずれ既存の取引銀行にわかることですし、銀行がとっておこうと思っていた信用保証枠をノンバンクで使ったとなるとその後の銀行取引が心配になるはずです。

 ノンバンクに望みがあるとすると、保証割合を引き下げようとする動きがあることです。現状は100%保証ですから、1,000万円の融資が焦げ付けば1,000万円の弁済を銀行は信用保証協会から受けられます。これを90%とか80%に引き下げようということです。1,000万円の焦げ付きでも今までは銀行は実損はなかったわけですが、今後は100万円から200万円くらいの損失が出るかもしれないということです。こうなると、保証がつけば実行しようという融資については、銀行は慎重にならざるをえなくなります。今でも大手銀行が断った案件を、2番手以下の第二地銀や信用金庫が拾っていたりしますから、保証割合の引き下げでこういった2番手以下の銀行からもこぼれる案件が出てくればノンバンクの出番となるのでしょう。あるいは、第二地銀や信用金庫あたりですと競合する可能性もあるかもしれません。

 もう一つは私募債でしょうか。私募債をノンバンクが扱えるのかどうかは知りませんが、扱えるのであれば優良企業にも食い込める可能性が出てきます。私募債は確か、もともと90%の保証ですし、機能としては融資と変わらなくても社債ということでノンバンクを使うことに抵抗感は少ないと感じることもあります。ノンバンクには信託会社も入るそうですから、私募債を引き受けてジャンク債ファンドでも組成してくれればそれなりに意味もあって面白いと思います。
 

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2005.03.05

決闘罪

 このブログの名前に使っている是政橋は多摩川にかかっている橋ですが、その上流で行われたケンカに決闘罪が適用されたと聞き、笑ってしまいました。いや、笑ってはいけないのでしょうね。一人は顔の骨を折るなど1ヶ月のケガをしてしまったということですから、これを機にケガが治ったら体を鍛えて心身ともに強い人間になって欲しいですね。

 決闘罪というのは、仇討ちを取り締まるために明治時代にできた法律によるのですが、法律も進化するという法律進化論に例として取り上げられています。明治時代の法学者、穂積陳重が唱えたのが法律進化論です。

 ハムラビ法典にもあるように、「眼には眼を、歯には歯を」と刑罰の基本は復讐でした。仇討ちは復讐が発展したものです。原則はやられた本人がやり返すのでしょうが、本人が殺されてしまった場合には本人がやり返せず、そのままでは殺し得になってしまいます。それでは正義が実現されませんから、殺された本人に近い家族等が代わりに復讐をすることから仇討ちが生まれました。これは人間の道徳感情にあっていたようで、近世にいたる江戸元禄年間でも赤穂浪士の討ち入りが支持されていますし、現代の私たちでも法律問題は別にして、敵討ちの心情は理解できます。

 国家権力が磐石ではない時代、戦国時代などは殺人事件の被害者になっても権力を持った人が必ずしも加害者を捕捉して刑罰を加えるとは限りません。ましてや、損害賠償などそんな概念もなかったのではないでしょうか。そうすると、正義を実現するためには自力救済しかありません。恐らくは、被害者のほとんどは泣き寝入りを余儀なくされたことと思いますが、義を重んじる武士などは仇討ちしないことこそ不道徳であるという意識がありますから、仇討ちに懸命になります。仇討ちは正義を実現する素晴らしいこととされます。

 でも、仇討ちはいいことばかりではありません。当然、返り討ちに遭うこともありますし、人違いをすることもあります。仇討ちはいいことばかりではないと人々が気づき始めるのにあわせて、国も落ち着いて治安がよくなってきます。そうすると仇討ちに規制が加わります。届出制になって、許可制になっていきます。江戸時代は各藩によっていろいろだったようですが、道徳上は仇討ちを認めていても、公的には実質上許されなくなります。そして加害者である犯人を権力が捕まえることができるほどに体制が整備されてきます。

 明治時代になって仇討ちを禁止する法律を定める時には、かなりの論争があったといいます。道徳論と法律論の対立だったのではないでしょうか。仇討ち禁止を強力に進めたのが、佐賀の乱で死んだ江藤新平だったということです。民法、刑法が整備されて警察機構も確立されれば、仇討ちや自力救済は不要であってかえって「悪」になります。

 国家が正義を実現しなくなると、人はどうしても自力救済せざるをえなくなります。自力でできなければ他人の力を借りてでも正義を実現したいと考えます。映画「ゴッドファーザー」でも裁判に納得できない市民がギャングに犯人への制裁を依頼するシーンが出てきます。

 とまあ、こんな背景で仇討ち、決闘は禁止されているわけですが、これはこれで鎌倉時代以来の「喧嘩両成敗」という考え方にも合致して、明治以降はヤクザの世界でもないと復讐を正当化する論理は使えません。ただ、多摩川縁で「タイマン」を張った少年たちは、国家や大人には任せていては正義が実現しないと思ったかどうかは非常に怪しいもので、今回の逮捕は卒業式シーズンを控えて先生たちへの「お礼参り」を牽制したのではないかと勘繰ってしまいます。もっとも、今でも中学校で「お礼参り」などがあるのかどうかは知りませんが。

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2005.03.04

18歳未満だけに死刑がないのはおかしいのでは?

 米連邦最高裁が、18歳未満の死刑を違憲としたとありました。未成年に対する死刑執行が「残酷な刑罰」に当るということが主な理由ということです。日本でも憲法で残虐な刑罰はかなり強く禁止されています。(36条)日本の少年法は18歳未満の犯罪者は死刑が相当でも無期懲役に緩和されることになっています。ですから、アメリカの連邦最高裁の判決は、日本の法律から見れば妥当なことといえます。

 でも、18歳未満の犯罪者には死刑がなくて、18歳以上だと死刑があるのはなぜなのでしょうか。18歳未満は若いがゆえに思慮不足で犯罪を犯してしまい、それに対して死刑を求めることは酷だからでしょうか。若者の特有の不安定な感情が犯罪を引き起こすこともあるからでしょうか。18歳未満の人間は、平均寿命からいえばまだ先があって更正する機会が十分にあるからでしょうか。

 幼いことを理由にするならともかく、若さを理由に刑罰を減刑するのは、どうも納得がいきません。「17歳の思慮不足は同情に値するけれども、48歳の思慮不足は同情に値しない。」といわれれば、それもそうだと思いがちですが、17歳でも15歳でも犯罪を犯すことは同情に値してはいけないはずです。17歳の中にも犯罪を犯す人間もいれば、犯罪を犯さない人間もいます。もし、犯罪者であってもその境遇など考慮すべき点があるのであれば、年齢にかかわらず考慮すべきことです。もちろん、考慮すべき境遇に犯罪者自身が能動的に働きかけて、改善できたかどうかを考える時に17歳の犯罪者と48歳の犯罪者とでは、一般的にその能力に違いがあることは多いかもしれません。それでも能力には個人差がかなり大きいと考えられますから、年齢によって一概に言えるものではありません。

 18歳未満の犯罪者は、まだまだ更正する機会は多いのかもしれませんが、これは非常にリスクのある考え方です。全ての犯罪者が更正するとは限りません。ついこの間も性犯罪者の再犯率の高さが話題になったばかりです。寿命を80歳として、17歳の犯罪者と48歳の犯罪者がいて、両者とも更正しなければ、17歳の犯罪者はあと63年も犯罪者であり続けますが、48歳の犯罪者は32年間で済みます。17歳の犯罪者は48歳の犯罪者よりも約2倍も犯罪を犯す時間があるのに、若いがゆえに死刑にならずいずれ世の中に出てきて再び犯罪を犯すかもしれません。48歳の犯罪者だけが死刑になっても犯罪が起こる要因はなくなりません。

 むしろ、18歳未満の人間に死刑がありうることを周知させれば、更正できる人間であれば犯罪を思いとどまる可能性が出てきて、一定の抑止力効果が期待できるかもしれません。それに比べて老い先の短い人間には死刑の抑止効果は若者に比べて小さいと考えられます。昨年暮れの白髭橋病院での殺傷事件のように、犯人が裁判さえ受ける前に自分の寿命で死んでしまえば、死刑の抑止効果はゼロに等しいといえるでしょう。

 だからといって、若者に死刑制度をつくって、老人には死刑は不要などというつもりはありません。年齢によって死刑があったりなかったりしてもどれほど意味のあることか疑問だということをいいたいのです。刑罰を受けられる年齢であれば、受ける刑罰を制限しても決して人道的でも何でもありません。未成年だから死刑は残酷だというのなら、成年にとっても残酷です。日本もアメリカも、この点に関しては論理的ではなく感情に流された制度になっているといえそうです。
 

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2005.03.02

韓国大統領の問題発言

 韓国のノ・ムヒョン大統領が不愉快な発言をしたようですが、一国の元首としての発言としてはかなり程度の低いないようであることは間違いないようです。日本人の私から見ると、戦後60年も経っていまだにこんなことを言っているのかと呆れるのですが、痛みを受けたほうは忘れないのでしょう。ただ、それは一般国民のレベルの話であって、大統領が公の場で言う内容とは思えません。もし、この発言を受けて日本の首相か閣僚あたりが、「外交上、問題にするつもりはないが、過去において正式に謝罪し賠償済みの問題を蒸し返す言動は、日韓両国の友好関係への挑戦とも受け取れるもので遺憾である。」とでも言ったら大変な騒ぎになることでしょう。

 一般の韓国の人たちは、実際に思っていても「戦時中のことを快く思っていない」とわざわざ日本人に聞こえるところで言ったりすることはまずないはずです。よほど日本に嫌悪感を持っている人でない限り。韓国大統領が公式の場で演説すれば、日本に報道されることくらいは自覚して当然です。だからこそ、歴史問題を両国間の争点にしないと断って発言をしているのでしょう。韓国国民の心情を代弁しようとしたのかもしれませんが、国民が日本人に面と向かっていえないような失礼なことを大統領が言ってしまっていいものでしょうか。

 大統領が国民の心情を、それも外交上問題のあることを代弁しなければならないとすると、韓国のマスコミや評論家のような人たちは無能なのか、それとも大統領はよほど偏向した考えを持っているのか、どちらかではないかと思います。日本のマスコミはノ・ムヒョン大統領の演説を、問題発言として取り上げてもいいのではないでしょうか。

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2005.03.01

改正船舶油濁損害賠償保障法

 改正船舶油濁法が北朝鮮への制裁代わりになるとの意見がありますが、これには賛成しかねます。北朝鮮からのベニズワイガニを水揚げしている鳥取県の境港市のことがニュースで取り上げられていましたが、北朝鮮の船舶を含めて船主責任保険の未加入船をいかになくすかが本来の目的で、境港市は自治体をあげて保険加入を勧めたいはずですし、そうすることが京都議定書の議長国であり環境を重視する日本の役割です。その上で、北朝鮮には経済制裁を課すべきであって、経済制裁を改正船舶油濁法で置き換えるために北朝鮮船舶に保険を勧めることさえもできないとなると、制裁のために環境問題をないがしろにすることになります。これは正しいこととはいえません。

 経済制裁であれば、境港の関係者へも国民からの支援として、補償金を支払ってあげていいと思います。北朝鮮からの船が入らなくなることは、改正船舶油濁法も経済制裁も一緒なのに、前者には補償金はなしで後者にはありとするのはおかしな感じを持つ人もいるかもしれません。北朝鮮の船舶が船主責任保険に入っていないことは、以前からわかっていたことで、境港の関係者はそれを知った上でリスクがあることを承知で取引していたわけですから、補償は必要ないという考えもあるでしょう。しかし、私はそうは考えません。経済制裁をしていくらかでも効果があるのは、リスクを承知で北朝鮮との取引をしてきた人がいたからです。自民党のシミュレーションチームの試算では、経済制裁の効果は北朝鮮のGDPの1.25%~7%と見ているようですが、その効果はたとえわずかでもリスクを犯して北朝鮮との取引をしてきた人たちのおかげともいえます。すべての人が合理的に行動して、リスクを取らないように北朝鮮との取引をやめていたら、経済制裁をしても効果はほとんどなくなってしまいます。もちろん、経済制裁の効果はGDPを何パーセント減少させたかで計るものではないと思います。それでも、境港の人々をはじめ、国内の世論に気遣いながらリスクを承知で働いてきた人たちが報われるようにすべきです。

 このような観点から、改正船舶油濁法を厳格に適用することは当然ですが、北朝鮮に対する経済制裁は行うべきと考えます。境港の人たちは、補償金目当てといわれたくないでしょうから、経済制裁やるべきとは言いにくいのかもしれませんが、世論やマスコミが代わって主張すべきです。政府には間違っても改正船舶油濁法を経済制裁代わりに使おうなどと考えないことを望みます。

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