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2006.08.20

暑さを忘れるひと時

0608191  風鈴の音で涼しくなるように、揺れる木の枝や葉を見て涼しくなることがあります。しかし、それが涼やかな風によるものでないとわかったとき、何か空間の罠にはまったような気になります。

 それは涼しさを感じる準備はできているのに感じられないもどかしさと、何が木々を揺らしたのかという不可思議さが一緒になって、何か得体の知れないものに足をとられた気になるのです。

 それが雀のいたずらとわかったとき、ホッとしながら、罠にはまっていた短い時間は涼しさは感じなくとも暑さは忘れていたことに気がつきます。

0608192 ふと目にとまった朝顔の美しさに、一瞬暑さを忘れられたのと同じような心持です。

     揺れる枝  雀のとまる  ケヤキの葉
       朝顔を見る  特等席かも

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2006.08.09

非宗教法人化への違和感

 靖国神社や護国神社の非宗教法人化という麻生外相の私案には、どうも違和感を覚えてしまいます。というのも、死者を祀ってある場所から宗教性を取り除くということは、ある種の冒涜ではないかという気がしてならないからかもしれません。しかし、国のために命を落とした英霊を国の誰もが心置きなく慰霊するには、宗教から離れることはひとつの方法ではあると思います。ただ、そうは言っても靖国神社は神道の神社であるという心情は、そう簡単に変えられるものではないだろうと思いますし、慰霊するという行為から、どんな宗教・宗派であるにせよ切り離すことなどできるのかという疑問は付きまといます。

 そしてもうひとつ、違和感の覚える原因はどうも国家神道を連想させるように思えることです。国の英霊を祀る神社から宗教性を取り除くことによって、どんな宗教を信じている人でも国民に慰霊することを求めることができるようになります。もちろんそれ自体悪いことではありませんが、慰霊は自発的な気持ちであることが望ましいものです。いろいろな理屈をつけて慰霊を拒否する人がいることは確かで、それは非常に残念なことではありますが、人の気持ちを強制することはできません。明治憲法下でも信教の自由はあったにも拘わらず、国家神道が強制されて軍国主義で国民を染めることができたのは、神道は宗教ではないという理屈です。仏教のお経、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランに相当する明文の聖典がなく、教義がきちっと固まっていないとして、神道は宗教ではなく習俗だという考えから、どんな宗教・宗派の人にも日本国民である限り神道を強制しえたのです。恐らく、今でも多くの人は仏壇と神棚が共存することに違和感がないのですから、神道は文化とか習俗だと言われればなんとなくそんなものかと思うのではないでしょうか。もっとも昭和の一時期のそういう中で、靖国神社は英霊を祀る特別な存在として広く国民に浸透したのですから、その状態に戻すという意味で非宗教法人化は理解はできます。仮に靖国が再び国家神道的な性質を帯びたとしても、それが軍国主義に結びつくことはまずありえないでしょうから、目くじらを立てる必要なないのかもしれません。

 それでも私は非宗教化には違和感を覚えます。私は神社にお参りをするときには、亡き母を思いご先祖様を思い、靖国の英霊を含めてすべての御霊に、いま自分がいることを感謝して、自分と家族、友人に親戚、自分の住む地域の人々やこの国の人々、世界の人々の平和を祈っています。これが私の宗教だと思っています。今年は前厄であることも手伝って、どこであれ神社があって時間があればわりと頻繁にお参りをするのですが、母を葬った場所へ行かなくても、靖国へ行かなくても先立った身内や国の英霊に感謝の気持ちを表わしているつもりでいます。靖国が神道の神社でなくなると、近所の神社にお参りしても、今まで思ってきた英霊への感謝の気持ちが届かなくなってしまうようで、どこか心寂しさを感ぜざるを得ません。どうもそれが非宗教法人化への違和感であるようです。単なる私のわがままなのかもしれませんが、どこにいても鳥居の前に立てばお参りできるということは、ちょうどコンビニみたいなもので、もし近所からなくなると非常に不便に感じます。

 昨日の夕方、風呂から上がると、台風7号の雨雲の合間なのか、夕焼けで窓の外は赤く染まっていました。なんだかとても懐かしい風景のような気がしました。

   夕暮れの 紅(くれない)に君 思い出す
    浴衣の頬に 口づけた頃

夏の夕暮れ時は、ふっと落ち着いて、子供の頃でもわりと大人びたことに思いをめぐらせて、マセたことをやっていたような気がします。あの頃は神社でもお寺でも、手を合わせるときは、今よりずっと素直だったのかもしれません。

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2006.08.05

本音で接すればいいのでは

 安倍官房長官の靖国参拝は、総裁選にも絡んで波紋を広げそうです。ただ、どうして4月15日のことが今頃出てきたのでしょうか。靖国には参拝せずという姿勢を明確にした谷垣氏との違いを鮮明にするために安倍氏サイドからリークしたのでしょうか、それとも靖国問題を大きくして安倍氏の勢いを止めようとする反安倍サイドがリークしたのでしょうか。どちらにせよ不自然な感じを受けます。昭和天皇の発言メモは安倍氏の著書「美しい国へ」の発売日にスクープされましたし、朝日新聞の誤報といっていいと思いますが、NHKの番組に不当に圧力をかけたとして取りざたされたときにも安倍氏が槍玉に上がっていました。まさかとは思いますが、右寄りといわれる政治家を追い落とそうとする勢力が暗躍しているかのようです。でも北朝鮮による拉致問題にしても、以前は拉致などあるわけがないと思われていたのが、80年代のラングーン事件、大韓航空機爆破事件があって拉致はあったようだとなって、いろいろな事実が出てきてほぼ間違いないだろうといわれて、21世紀に入ってようやくハッキリしました。世の中まさかと思うことが案外正しかったりすることもあるようです。

 自民党の総裁選で、靖国が争点になるとは思いませんでしたが、朝日は『安倍氏、4月に靖国神社参拝 総裁選の争点にも』という記事で争点になるという見解ですし、読売も『安倍官房長官は今年4月に靖国参拝…総裁選の争点にも』で、「靖国問題が9月の自民党総裁選の争点となるのは避けられない情勢だ。」と書いています。産経は武部幹事長の「総裁選に影響ない」という発言を伝えていますが、日経は「9月の自民党総裁選に向け、靖国問題が争点になるのは避けられない状況だ。」として、争点になると言っています。新聞の報道を見ていますと、靖国参拝を控えよという論調の新聞は、この問題を総裁選の争点になると言っているように思えます。

 こんなことを争点にしてもあまり意味はないように思うのですが、自民党の総裁選の争点となってしまうのなら、単に行くか行かないかだけではなくもっと具体的な点を示してもらいたいと思います。参拝に行くなら中国や韓国との関係改善はどうするのか、行かないのなら明治以来、国のために命を落とした人たちの追悼をどう考えるのか、きちんと示してほしいものです。私は靖国に行くか行かないかということで、その政治家を支持するかどうかの判断基準にするつもりはありませんが、国のために尽力した先人を追悼しないような政治家は支持できません。

 理想としては首相や閣僚はもちろんのこと、天皇陛下も追悼できるようにすることですが、それにはA級戦犯を分祀するのがいいのか、新たな追悼施設を作るのがいいのか、現状のままでも粘り強く中国と韓国を説得するのがいいのか、いろいろな考えがあるだろうと思います。民主党の小沢代表は「安倍首相なら日中、日韓関係は、今と同じような話し合いもできない状況になる」と言ったそうですが、私はそうは思いません。次期政権でも“政冷”では経済界は困るでしょうが、困るのは中国側も同様です。日本側はいつでも話し合う用意はあるわけですから、中国側がいつまでも話し合いもせずに進展が望めないまま理屈に合わない意地を張っていることは得策とは思えません。根拠はないのですが、小泉首相に続いて“安倍首相”も靖国参拝を続ければ、非難はしながらもお互いにメリットのある経済の流れだけは滞らないよう中国政府も方針を変更する可能性もあるかもしれません。どちらかが無理に我慢するうわべのだけの友好よりも、礼儀はわきまえて言いたいことを言い合って対立するほうが、本当の相互理解の早道のような気がします。

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