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2007.07.12

縄張り

 隆は小学校へ行く途中の遊歩道に、猫が棲んでいるのを知っていた。あかるい茶色で、少し痩せた猫である。朝、大勢の子供たちがその遊歩道を通るときには、決して姿を現さない。恐らくはどこかへ出かけているのだろう。ある日、風邪をひいて、病院へ行ってから登校したとき、その茶色いヤツが鳴いているのを聞いた。「ミャーミャー」と少し甘えたような声で鳴く。その時は風邪だったこともあって、あまり気にせず通り過ぎただけだった。

 それから数日後、風邪も治って、今度は帰り道に茶色いヤツの鳴き声を聞いた。今度も「ミャーミャー」と、鳴いているのだが姿が見えない。鳴きながら動いていて、隆からは見えないように歩き回っているようだった。

 隆は、遊歩道の真ん中にある植え込みのあっち側とこっち側を行ったり来たりしながら、まるで鬼ごっこでもしているように走り回って、ようやく茶色いヤツの姿を見つけた。見つけたときは一人で走り回っていたにもかかわらず、なぜか隆は笑顔で茶色いヤツに微笑みかけていた。猫はそんな隆を見下すように、一瞥しただけですぐにどこかへ走り去ってしまった。

 翌日、隆は給食のパンをひとかけらだけ、ティッシュに来るんでランドセルに忍ばせた。帰りにまた茶色いヤツを見かけたら、あげようと思って遊歩道へ来た。ところが今日はヤツはいなかった。遊歩道の脇の、楠の上にはカラスがとまっている。隆は昨日追いかけっこをした植え込みの脇に、パンのかけらを置いて帰った。あの茶色いヤツが見つけて食べてくれればいいと思って。

 翌朝、登校の途中にパンを置いた植え込みを何気なく見てみると、パンはなくなっている。(きっと茶色いヤツが食べたんだ。)隆はそう思ってうれしくなった。

 その日はパンを三分の一くらい、周りに見つからないようにランドセルに隠した。今日はいるだろうか。そんなことを考えながら遊歩道に来ると、「ミャーミャー」と茶色いヤツの鳴き声が聞こえた。隆は脅かさないように植え込みのそばで腰を落として猫を探した。しかし、見当たらない。ただ鳴き声はする。鳴き声は、道の反対側の隅のほうから聞こえている。

 隆はパンをちぎって鳴き声のするほうへ投げてみた。驚いたように鳴き声は止んだ。失敗したかと思ったが、茶色いヤツが出てきたパンを食べた。

「おいしいかい。まだあるぞ、ほら。」もうひとかけら投げてやる。猫は投げ込まれた方へ歩み寄ってパンを食べた。今度は隆が植え込みを回って猫の近くへ寄った。猫は逃げずに隆の足元で「ミャー」と鳴き、隆から残りのパンをもらって食べた。

 隆はうれしくなって、家に帰って母親に猫が自分の手からパンを食べたことを話した。「茶色くて、ミャーミャーって鳴くんだよ。」
しかし、母親はちゃんと手を洗ったのかと、給食を残してはダメと言うだけで、隆のうれしさを理解してはくれなかった。

 翌日もパンを忍ばせて、あの遊歩道へ行った。隆は、母親の言いつけをいちいち守る歳ではなくなっていた。今日も「ミャーミャー」と鳴き声が聞こえる。隆が行くと姿を見せ、催促するように「ミャー」と隆に向かって鳴いた。しかし、今日は隆の足元までは来ない。パンをちぎって投げてやるが、物足りないのか、食べてすぐに催促するように鳴く。隆は残りのパンをちぎらずに、そのままそこにおいてパンから離れた。

 猫が「ミャー」とひと鳴きしてパンに駈け寄るそのときだった。「カアー」という鳴き声が頭上から聞こえると、カラスが猫を襲ってパンを横取りしてしまった。カラスは横取りするだけならまだしも、パンをくわえたまま、猫の頭付近に飛び乗るようにして攻撃を加えている。猫は「ミャ、ミャ、ミャ、ギーッ」という叫び声のような奇声を発して逃げていった。

 隆は驚いて、呆然とその事件の一部始終を見ているだけだった。正直言って恐ろしかった。そして、せっかく仲良くなれたと思った茶色いヤツに酷いことをしたカラスを憎んだ。助けてあげられなかった自分を情けないと思った。

 翌日、遊歩道の楠の上にカラスはいたが、猫はいなかった。あれが昨日のカラスなのかどうかはわからないし、確かめようもなかった。それからもうそこで茶色いヤツを見ることはなかった。

 こんな子供のことを思い出したのはどういうわけなのだろう。隆は、今日で企画部から異動になる。花形といわれた部署だが、同期の斉藤が残り、隆は去ることとなった。この一年、同期の2人にチャンスを与えて競わせたということだが、はじめから勝負は決まっていたようだ。異動を告げられる前日、隆は偶然にも部長室での電話の話を聞いてしまった。

 決裁をもらうための書類を持って部長室へ入ろうとノックを仕掛けたとき、多分人事と話している部長の会話が聞こえてきた。
「残すのは斉藤じゃないですか。そういう約束で去年ヤツと一緒に引き受けたんです。移動させるならヤツのほうでお願いしますよ。」

 その部長が異動を告げるときには、「君にはもっとやって欲しいことがあって引き留めたんだが、人事部には逆らえなくてね。ここでの経験を生かして頑張ってほしい。」などというのだから笑ってしまう。

 しかし、そうだ。今だから思える。あの遊歩道はもともとカラスの縄張りだったのかもしれない。そこに茶色いヤツが入ってきて、餌までもらっていたから追い出されたのではないだろうか。ティッシュに包んだパンのかけらを、追いかけっこした植え込みの脇においてきたけれど、あのパンを食べたのはきっと猫ではなくカラスだったのかもしれない。カラスの縄張りを侵したから、茶色いヤツは酷い仕打ちを受けたのかもしれない。

 企画部なんてとこは、俺の来るところではなかった。斉藤と、あの白々しい裏表のある部長のようなエリートたちの縄張りだったようだ。ところで、あの茶色いヤツ、あそこを追い出された後、どこへいってどんな暮らしをしていたのか、隆は今になって気になっていた。

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