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2007.07.11

信教の自由、歴史認識の自由

 誰がどういう宗教を信じていようと、いまの社会ルールを守って暮らしている分にはまったく自由です。宗教が原因の戦争は今でもありますが、少なくとも先進国においては宗教を戦争で広めることを是認する社会はありません。

 原爆投下を「しょうがない」ということは、あまりにも稚拙な言い回しを、閣僚として日本を代表する人が使ったから非難されたのであって、誰がどういう考えを持とうと基本的には自由です。いろいろな考え方があることを認めることが必要で、第二次大戦中の原爆投下でさらなる犠牲を回避できたという考えも、存在することは認めなくてはなりません。もっとも原爆を投下していなければ、どれだけの犠牲者が出ていたかということについては、誰も確認も証明もできませんから、それを積極的に肯定も否定もできないというのが、一番客観的な態度なのではないかと思います。

 従軍慰安婦問題は、慰安婦という売春婦について、それが日本軍の強制によるものかどうかという事実の問題です。事実は確認できていないけれど、元慰安婦の証言だけをもとに日本政府に謝罪を求めているという問題です。これは歴史認識ではなく事実の問題ですから、事実の確認を行うべきで謝罪するしないはその後のことです。

 事実の問題はいずれ事実が判明するはずで、嘘をつく人間がいなくなればハッキリすることです。しかし、歴史認識は時間が経っても、何が正しくて何が間違いかハッキリするということではありません。豊臣秀吉の朝鮮出兵について、あれを現在使っている意味での侵略というのかどうか、あるいは日本が朝鮮との戦いで負けたと見ることなのか、いや朝鮮との戦争ではなく明との戦いなのか、今でもいろいろな見方ができると思います。学問上の論争はあっても、政府やましてや国民感情のレベルで論争しても仕方のないことです。太平洋戦争について、これから100年経っても日本の自衛のための戦争なのか、侵略戦争なのか、どちらとも言えるのではないでしょうか。

 むしろ、ひとつの事実に対していろいろな見方ができるということは、それだけ考え方の多様性を示すことであり、日本国内においていろいろな見方・考え方が存在することは、それだけわれわれの社会が多様性に富んだ、柔軟な社会であることを意味するといえます。

 歴史認識にこだわって、あれこれ言い争うことは、一つの宗教しか認めない硬直化した社会と何ら変わることがないだけで、決して褒められたことではないと思います。よく中国や韓国が、「誤った歴史認識」などといいますが、歴史認識に正しいとか正しくないとかいうこと持ち出すこと自体が間違いなのではないかと思います。

 原爆で亡くなられた方を追悼する気持ち、さらにその被害でいまだに苦しんでおられる方にお見舞い申し上げる気持ちは持ち続けたいと思います。それでも、われわれと違った考えをする人々がいることも認めたうえで、様々な見方、考え方を理解したいと思います。

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