2007.08.01

老人と街灯の下で

一人暮らしの老人の家に、久しぶりの訪問者であった。老人の娘が孫を連れてやってきた。

「恒治君はいいのか。」 「今日は出張で帰らないから。家でこの子と2人でいるのも退屈だし。」

老人の妻、娘の母親は早くに亡くなり、老人は男手ひとつで娘を育ててきた。

梅雨の明けた真夏の太陽が傾いて、少しは過ごしやすくなった頃に、娘は夕飯の買い物に出掛けた。老人は孫と留守番しながら、夕べの涼やかな風を求めて外へ出た。老人はまだ妻がいた頃、夏の夕暮れに娘を連れて三人で、当時住んでいた港町の川開きに出掛けたことを思い出した。

娘は両手で父と母の手を握り、川へ向かって夜道を歩いていく。花火が上がると娘は手を離し、一目散に駆け出す。上を見上げながら走るものだから、すぐに転んで泣き出す。妻が娘を抱いてあやしながら人混みを避け、花火の見える公園のブランコに乗って娘の泣き止むのを待っていた。

そんなことを思い出したのは、孫の手を引いて近所の公園まで来て、ブランコを見つけたからかもしれない。不意に孫が老人の手を振りほどいて走り出す。

「パンダだ!」 パンダの乗り物に乗ってご機嫌である。老人は目を細めて孫について行く。 「見てぇ、パンダなの。」 老人はパンダの乗り物の近くまで行って上から孫のうれしそうに遊ぶ姿をのぞき込む。

ちょうど公園の該当に明かりが灯った。その下で、老人の笑顔に見守られて孫が楽しんでいる。買い物を終えて帰る娘が通りかかる。娘は子供の表情はよく見えはしなかったものの、街灯の下で街灯と同じような格好の老人を見て、おかしくもあり子供のうれしそうな気持ちがよく見えた気がした。

頭(こうべ)垂れ 子どもをあやす 老人を 照らす街灯 また頭(こうべ)垂れ

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2007.07.12

縄張り

 隆は小学校へ行く途中の遊歩道に、猫が棲んでいるのを知っていた。あかるい茶色で、少し痩せた猫である。朝、大勢の子供たちがその遊歩道を通るときには、決して姿を現さない。恐らくはどこかへ出かけているのだろう。ある日、風邪をひいて、病院へ行ってから登校したとき、その茶色いヤツが鳴いているのを聞いた。「ミャーミャー」と少し甘えたような声で鳴く。その時は風邪だったこともあって、あまり気にせず通り過ぎただけだった。

 それから数日後、風邪も治って、今度は帰り道に茶色いヤツの鳴き声を聞いた。今度も「ミャーミャー」と、鳴いているのだが姿が見えない。鳴きながら動いていて、隆からは見えないように歩き回っているようだった。

 隆は、遊歩道の真ん中にある植え込みのあっち側とこっち側を行ったり来たりしながら、まるで鬼ごっこでもしているように走り回って、ようやく茶色いヤツの姿を見つけた。見つけたときは一人で走り回っていたにもかかわらず、なぜか隆は笑顔で茶色いヤツに微笑みかけていた。猫はそんな隆を見下すように、一瞥しただけですぐにどこかへ走り去ってしまった。

 翌日、隆は給食のパンをひとかけらだけ、ティッシュに来るんでランドセルに忍ばせた。帰りにまた茶色いヤツを見かけたら、あげようと思って遊歩道へ来た。ところが今日はヤツはいなかった。遊歩道の脇の、楠の上にはカラスがとまっている。隆は昨日追いかけっこをした植え込みの脇に、パンのかけらを置いて帰った。あの茶色いヤツが見つけて食べてくれればいいと思って。

 翌朝、登校の途中にパンを置いた植え込みを何気なく見てみると、パンはなくなっている。(きっと茶色いヤツが食べたんだ。)隆はそう思ってうれしくなった。

 その日はパンを三分の一くらい、周りに見つからないようにランドセルに隠した。今日はいるだろうか。そんなことを考えながら遊歩道に来ると、「ミャーミャー」と茶色いヤツの鳴き声が聞こえた。隆は脅かさないように植え込みのそばで腰を落として猫を探した。しかし、見当たらない。ただ鳴き声はする。鳴き声は、道の反対側の隅のほうから聞こえている。

 隆はパンをちぎって鳴き声のするほうへ投げてみた。驚いたように鳴き声は止んだ。失敗したかと思ったが、茶色いヤツが出てきたパンを食べた。

「おいしいかい。まだあるぞ、ほら。」もうひとかけら投げてやる。猫は投げ込まれた方へ歩み寄ってパンを食べた。今度は隆が植え込みを回って猫の近くへ寄った。猫は逃げずに隆の足元で「ミャー」と鳴き、隆から残りのパンをもらって食べた。

 隆はうれしくなって、家に帰って母親に猫が自分の手からパンを食べたことを話した。「茶色くて、ミャーミャーって鳴くんだよ。」
しかし、母親はちゃんと手を洗ったのかと、給食を残してはダメと言うだけで、隆のうれしさを理解してはくれなかった。

 翌日もパンを忍ばせて、あの遊歩道へ行った。隆は、母親の言いつけをいちいち守る歳ではなくなっていた。今日も「ミャーミャー」と鳴き声が聞こえる。隆が行くと姿を見せ、催促するように「ミャー」と隆に向かって鳴いた。しかし、今日は隆の足元までは来ない。パンをちぎって投げてやるが、物足りないのか、食べてすぐに催促するように鳴く。隆は残りのパンをちぎらずに、そのままそこにおいてパンから離れた。

 猫が「ミャー」とひと鳴きしてパンに駈け寄るそのときだった。「カアー」という鳴き声が頭上から聞こえると、カラスが猫を襲ってパンを横取りしてしまった。カラスは横取りするだけならまだしも、パンをくわえたまま、猫の頭付近に飛び乗るようにして攻撃を加えている。猫は「ミャ、ミャ、ミャ、ギーッ」という叫び声のような奇声を発して逃げていった。

 隆は驚いて、呆然とその事件の一部始終を見ているだけだった。正直言って恐ろしかった。そして、せっかく仲良くなれたと思った茶色いヤツに酷いことをしたカラスを憎んだ。助けてあげられなかった自分を情けないと思った。

 翌日、遊歩道の楠の上にカラスはいたが、猫はいなかった。あれが昨日のカラスなのかどうかはわからないし、確かめようもなかった。それからもうそこで茶色いヤツを見ることはなかった。

 こんな子供のことを思い出したのはどういうわけなのだろう。隆は、今日で企画部から異動になる。花形といわれた部署だが、同期の斉藤が残り、隆は去ることとなった。この一年、同期の2人にチャンスを与えて競わせたということだが、はじめから勝負は決まっていたようだ。異動を告げられる前日、隆は偶然にも部長室での電話の話を聞いてしまった。

 決裁をもらうための書類を持って部長室へ入ろうとノックを仕掛けたとき、多分人事と話している部長の会話が聞こえてきた。
「残すのは斉藤じゃないですか。そういう約束で去年ヤツと一緒に引き受けたんです。移動させるならヤツのほうでお願いしますよ。」

 その部長が異動を告げるときには、「君にはもっとやって欲しいことがあって引き留めたんだが、人事部には逆らえなくてね。ここでの経験を生かして頑張ってほしい。」などというのだから笑ってしまう。

 しかし、そうだ。今だから思える。あの遊歩道はもともとカラスの縄張りだったのかもしれない。そこに茶色いヤツが入ってきて、餌までもらっていたから追い出されたのではないだろうか。ティッシュに包んだパンのかけらを、追いかけっこした植え込みの脇においてきたけれど、あのパンを食べたのはきっと猫ではなくカラスだったのかもしれない。カラスの縄張りを侵したから、茶色いヤツは酷い仕打ちを受けたのかもしれない。

 企画部なんてとこは、俺の来るところではなかった。斉藤と、あの白々しい裏表のある部長のようなエリートたちの縄張りだったようだ。ところで、あの茶色いヤツ、あそこを追い出された後、どこへいってどんな暮らしをしていたのか、隆は今になって気になっていた。

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2007.07.03

芸術家たち

画家が描いた絵を焼いていた。失敗作だから焼いてしまうのだという。

陶芸家が出来上がった器を壊していた。駄作だから割ってしまうのだという。

作曲家が泣いていた。書き上げた曲が気に入らず楽譜を破いたのに、みんなはその曲をいまだに歌っている。あんな駄作の作者となることに耐えられない、と。

詩人が来て歌った。

形がなくても残るもの 誰かの心に残るもの
我らが創る芸術は 作者を離れて磨かれて 
誰かの心に残るもの

画家は再び描き始めた。誰かの心に残る、あの焼いてしまった絵を越えるために。

陶芸家は再びろくろを回した。誰かの心に残る、あの割ってしまった器を越えるために。

作曲家はみんなの心に残るあの曲よりも、もっともっといい曲を届けようと、再び作曲に取り掛かった。

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2007.06.29

強くなりたかった少年

彼は僕のために学校を辞める羽目になった。

僕をいじめていたのは彼だということになった。

でも違う。彼ではない。僕をいじめていたのは彼ではなかった。

そんなこと、言えやしなかった。言ったらどんなことになっていたか。

彼は最後に僕に向かってこういった。「強くなろうぜ」

彼が学校を去ってからも、殴られたり金をとられることに変わりはなかった。

これではたまらない。

ある日学校を去った彼に会った。彼はチンピラ仲間とつるんでいた。彼らと組むことにした。

いじめの連中を呼び出し、彼が言った。「なんで俺が追い出されなきゃならなかったんだ。」

いじめ連中は僕を指差して、「あいつがそう言ったから」と言った。

「そう仕向けたのはどこのどいつだ。」チンピラ仲間がいじめ連中を殴り倒した。

それから立場は逆転した。いじめ連中と学校の隅で会うことに変りはなかったが、殴られたり金を取られることはなかった。

逆にやつらから金を取った。取った金は全部チンピラに渡したけれど、殴られなくなっただけましだった。

そんなことがいじめ連中が卒業するまで続いた。

いじめ連中が卒業した後、金を巻き上げる相手がいなくなり、チンピラ仲間の機嫌が悪くなった。

彼は機嫌が悪くなって当り散らすチンピラ仲間を刺した。

少年院に入った彼を訪ねたとき、彼は僕に言った。

「本当に強くならなくちゃね。」

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2007.06.26

どんな日でも

「こんな梅雨の季節だった。」 とあるバーで聞こえてきた話。

「最初は赤い傘が揺れていた。花壇の向こうで。それが一歩一歩近づいてきて、傘の中に女が見えてきた。花壇には紫陽花がいっぱいだった。これが最初の恋だった。」

「その女とは、どこへ行くにも雨だった。デートをすると、最初はいい天気でも、必ず帰りまでには雨が降る。だから、こんな雨女とは長くは付き合えないと思った。」

「別れ話を切り出すと、『あなたのような雨男は、わたしがついていなければダメなのに』なんて言われたよ。彼女にしてみれば、俺が雨男だったわけだ。」

「その女と別れてからしばらくして、今度は白い傘、日傘が花壇の向こうで揺れていた。一歩一歩近づいてきて、傘の中に女が見えてきた。花壇には向日葵がいっぱいだった。これが二度目の恋だった。」

「その女とは、どこへ行くにも晴れだった。デートをすると、いつ降り出してもおかしくない空模様でも、なぜか途中からいい天気になる。だから、こういう晴れ女とは結婚したいと思った。」

「プロポーズをすると、『あなたのような晴れ男は、無駄に運を使い果たしていて、わたしにはもう興味はないの』なんて言われたよ。彼女にしてみれば、俺は無駄な晴れ男だったわけだ。」

「3番目にいまのかみさんと出会った。出会ったときの天気なんて覚えてないさ。確か大学の教授の家に、学生が大勢集まったときに居合わせたのが、最初の出会いだったかもしれない。」

「いろんなことがあったけど、晴れたり曇ったり、雨の日もあった。そうそう東北に転勤していた時期もあったから、雪の日もあったな。天気なんて気にしている暇もなかったってのが本音なんだがね。」

そう言うと、初老の紳士は席を立って店を出て行った。ちょっといい話を聞いたので、バーボンをもう1杯飲んでから帰った。

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2006.08.20

暑さを忘れるひと時

0608191  風鈴の音で涼しくなるように、揺れる木の枝や葉を見て涼しくなることがあります。しかし、それが涼やかな風によるものでないとわかったとき、何か空間の罠にはまったような気になります。

 それは涼しさを感じる準備はできているのに感じられないもどかしさと、何が木々を揺らしたのかという不可思議さが一緒になって、何か得体の知れないものに足をとられた気になるのです。

 それが雀のいたずらとわかったとき、ホッとしながら、罠にはまっていた短い時間は涼しさは感じなくとも暑さは忘れていたことに気がつきます。

0608192 ふと目にとまった朝顔の美しさに、一瞬暑さを忘れられたのと同じような心持です。

     揺れる枝  雀のとまる  ケヤキの葉
       朝顔を見る  特等席かも

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2005.08.15

祖父の戦争

 今年も終戦記念日が来ました。毎年夏には戦争などしてはならないという気持ちにさせられるのは、戦争の悲惨さを伝えていこうという意識が我々にあるということなのでしょう。子供の頃、小学校の3~4年生ぐらいのときに、夏休みの宿題で「身近な人で戦争を体験した人がいたら話を聞いてみよう。」といった宿題があり、話を聞く人がいなければ何か戦争体験のことを書いた本を読んで内容をまとめるとか感想文を書くとか、そんな内容だったように思います。私の小学生時代というのは昭和40年代で、私の父や母も戦中生まれですから戦争の体験者に入っていたのですが、終戦時はまだ幼く戦争のことよりも戦後の食糧事情の大変さといったことのほうがよく聞かされていました。

 この頃、毎年夏休みには新潟の祖父のところへ行き、従兄弟とカブトムシやクワガタを取って遊ぶのが楽しみでした。祖父が兵隊へ行っていたことを両親から聞いていた私は、祖父に戦争のことを聞けばあの宿題ができるという腹づもりで、その年の夏は祖父のところへ行きました。そしてある日、私は祖父に戦争の話しを聞かせてほしいと頼みました。祖父は快く了解し話し始めたのですが、その話はなんと日露戦争から話し始めたのです。

 当時横須賀に住んでいたこともあって、戦艦三笠には何度も行ったことがあり、何とか話しについてはいきましたが、新潟の祖父の家の近所の提灯行列の話になるとさすがについていくことができず、私は少々退屈そうな表情になっていたかもしれません。それを見つけた伯母が助け舟を出してくれて、「お父っさま、トモちゃんが聞きてえって言ったのはお父っさまが行きなすった戦争のことをいっているのらすけ、早くその話しば聞かせてあげなっさい。」と言ってくれました。しかし、祖父はこう言って伯母の言うことを聞き入れませんでした。 「太平洋戦争だけが戦争ではない。」

 祖父は私と同じ干支の丙午(ひのえうま)でしたから1906年の生まれです。日露戦争は1905年に終わっていますから、この戦争は体験していません。ただ、祖父の両親は体験者であり、祖父はその両親から日露戦争の話も聞いていたでしょうし、学校でも習っていたのかもしれません。少なくとも当時の日本人の中で、日露戦争のことを最も良く知っている世代だったといえるのかもしれません。

 祖父と伯母は口論となり、日露戦争から下手をしたら第一次世界大戦を経ないと太平洋戦争にたどり着かないことを私は悟って、祖父の話についていく自信が持てず戦争の話を聞くことをあきらめました。祖父は自分が行って来た戦争について、もしかしたら言いたくないような悲惨な目に遭ってきたか、あるいは祖父自身が人に言えないような悲惨なことをしてきたか、いずれにせよ本当はあまり触れて欲しくない話だったのではないかと最近まで思っていました。

 毎年夏になると、テレビなどでは戦争に関する特集番組があって、「戦争の記憶を風化させてはならない」、「戦争の悲惨さを子供の世代に伝えなければならない」といったメッセージが伝わってきます。戦争を知らない世代として、そのメッセージに対する模範解答の一つに「どんなことがあっても戦争は嫌だ、いけないことだ」という意見があります。それはそれでいいのですが、どうもそのメッセージと回答には最近、違和感が出てきました。

 「戦争の悲惨さ」といったときに、ほとんどの人は戦争とは無意識に太平洋戦争や日中戦争を念頭においているのではないでしょうか。とすると、「戦争の悲惨さ」は「敗戦の悲惨さ」と言い換えることが可能です。もちろん多くの人がそんなことは思わないのかもしれませんが、いま戦争について語られる多くが敗戦について語られていることは間違いありません。これはある意味危険なことだと思います。 「戦争は悲惨だから戦争などやるものではない」、そういっているつもりなのに、実際には敗戦は悲惨だから戦争などやるものではない」といっていて、それなら負けなければ良いじゃないか、勝つ戦争なら肯定できるという論理に簡単にすりかえられる危険があります。

 祖父が亡くなって十数年が経ちます。私が小学生だったあの夏の日、祖父が「太平洋戦争だけが戦争ではない」といったその真意は、もう確かめようはありません。戦争の記憶を風化させてはいけないといいますが、日露戦争の記憶はなくなり記録として残って歴史になりました。今年は戦後60年ですが、日露戦争終結100年でもあります。どちらも20世紀前半に行われた戦争です。靖国や教科書など歴史認識を問われる問題がわれわれ日本人に突きつけられていますが、負けた戦争だけを見ていても答えは見つからないばかりか、問題を複雑にしているだけなのかもしれません。

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2005.06.07

私の宗教

 私の家には神棚も仏壇もありません。それでも「あなたの宗教は何か?」と聞かれたら、私は「神道です。」と答えることにしています。というのも、二十数年前、私が高校生のときに母親が亡くなったのですが、その葬式を神道形式で行っているからです。父親はまだ健在ですが、本人が特に反対の意思を示さない限り、いずれは母親と同じように弔って同じ墓に入れるつもりです。

 初めて葬式というものを経験したのは、小学校の低学年の頃、母方の祖父が亡くなったときでした。その時は大きな部屋に正座させられて、ずい分長い時間お坊さんの訳のわからないお経を聞かされたという印象で、正直言って苦痛でした。

 さすがに自分の母親の葬式では、悲しいほうが先で苦痛は感じませんでしたが、神主さんの言葉は所々分かるだけにお経よりは親しみを感じました。たまに親戚の家などに行った時に、礼儀上、仏壇や神棚を拝むことがあるのですが、仏壇は色で言うと「黒」のイメージで、神棚は「白」のイメージがあります。幼い頃は、お寺と神社の区別がつかなかったものですが、なぜかお寺には「怖い」という印象があります。いま思うと子供の頃の肝だめしはほとんどお寺を使って行っていたからのような気がします。

 大学生の頃、神社に行くとなぜか落ち着けることに気がつきました。母親を弔った宗教だからかもしれませんが、幼い頃に、イザナギ・イザナミの神話を聞かされていたり、天照大神やスサノウノミコト、ヤマトタケルノミコトの神話を聞かされていて親しんでいたこともその原因なのかもしれません。

 母親の墓は、新潟のいとこの家の裏山にあってなかなか行けませんが、どこに住んでいても近くの神社でお参りをするときには、母のことも少しは思ってお参りしているつもりです。身近な人の死を悼む気持ち、同じ国の人々が国のために死をもって貢献したことを悼む気持ちは誰にも止めることはできません。

 首相が靖国神社へ行く行かないでいろいろ言われていますが、行くなら行くで誰にも止められないと思います。どうせ首相が代われば行かない人だっているでしょうから、目先の外交でどうのこうの言うのもちょっとうんざりという感じです。それよりも、天皇陛下が行かないことのほうがおかしい。一般の英霊はもとより、A級戦犯といわれる人たちも、敗戦の責任を取ったこともそうでしょうけど、天皇へ戦争犯罪責任が及ぶことを恐れて黙って処刑されて行ったような気がします。

 いろいろ問題はあるでしょうけれど、誰もが自由に意思を表明して表現できていない現実が、すぐそこにあることを見せつけられることが残念で仕方がありません。

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2005.05.12

多摩川のシャボン玉

 多摩川の遊歩道を歩くのにはいい季節です。顔にあたる風を心地よく感じながら、川面がキラキラしているのを眺めて歩いて行くと、幼稚園の制服を着た女の子が駆けてきます。ふと後ろを振り返り、大きな声で呼びかけます。「ママー、チカー、はーやーくー」

 ママは向こうで幼稚園仲間のお母さんとおしゃべりをしています。ママの前にはベビーカーがあって、そこにいるのがチカちゃんのようです。幼稚園仲間のお母さんは、駆けてきた女の子と同じ制服を着た子の手を引いています。

 女の子は再び歩き出しました。手には大きなタンポポの綿帽子。(お願いだからそれは飛ばさないで欲しい。)ニットのカーディガンを着た私は、心地よい風を受けながらそんなことを思っていました。風上から綿帽子をフッとやられたらきっと私を直撃します。女の子は綿帽子を飛ばすことなく、キョロキョロと土手の草花を眺めながらすれ違いました。

 ママとチカちゃんに近づいてきました。「それじゃ、また明日。タカシ君またね。」ママがそういう声が聞こえました。すると、ママの前のベビーカーから綿帽子ならずシャボン玉が吹き出してきました。まるでチカちゃんがタカシ君に「またね。」といっているかのように。

 5月の昼下がりのシャボン玉は、多摩川の風に吹かれて川面のようにキラキラとしていました。そして、シャボン玉の向こうには川がゆっくりと流れています。今日、このときに、ここにいたことを感謝したくなりました。ベビーカーとすれ違って、私は小さくつぶやきました。「チカちゃん、ありがとう。」

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